橋爪大三郎「冒険としての社会科学」を読んでみた

本日の内容


今日のは長いなあ。

橋爪大三郎「冒険としての社会科学」を読んでみた

橋爪大三郎「冒険としての社会科学」を読んでみました。

冒険としての社会科学 (洋泉社MC新書)

冒険としての社会科学 (洋泉社MC新書)


1989年にハードカバーで出版された本の新書版(2008年)で、ハードカバーを読んだことがあります。内容をかなり忘れていますが、やっぱり面白かったです。

半分ぐらいは全共闘運動の分析と反省、という感じです。そのあたりは初めて読んだ当時も今もあまり理解できていないのですが、とても面白いと感じるところもありました。

あなたは憲法に違反できない

「あなたは憲法に違反できない」という話は、(当時ですが)この本で初めて知りました。

例えば、友人からこんな相談を受けたとします。

A子と宗教が取り持つ縁で婚約した。そうしたら、B子が脅すんだ。
『宗教を理由にアタシを捨ててA子を取るのね?人を宗教で差別しちゃいけないのよ。ちゃんと憲法に書いてあるわ。アナタ、憲法違反よ。訴えてやるから!』
オレ、どうしたらいい?

答えはこうなるそうです。

  • そもそも「憲法」ってものを、取り違えてないかい?


  • 憲法というのは、民衆が権力に対して発したものである
    • 権力というのは恐ろしいもので、放っておくと民衆を食い殺そうと待ち構えているものだ
    • その権力を縛るための鎖が憲法である
  • だから、憲法は、民衆が権力に対して、その力を制限するために発したものなのだ
    • 民衆を食い殺すような法律を作るわけには行かない。そのための鎖の役割をしているわけだ
    • そういや「憲法に違反するような法律は作れないし、もし作っちゃったら『違憲立法審査』によって廃止されちゃう」って習うもんな


  • よって、民衆が憲法に違反することはできない
    • プロレスの観客が「反則により失格」になったりしないようなものだ

この理屈を知るだけでも、この本を読む価値があるかも知れません。うーむ、学校でもこうやって教えてくれればいいのに。

日本の社会原則とは「いっしょにいること」

著者によると、日本の社会原則とは「いっしょにいること」なんだそうです(『仏教の言説戦略』という本では「トゥギャザネス」と命名しているとか)。


「いっしょにいること」が大切であり、ある法を守ることで集まっている「法共同体」ではない。逆に、いっしょにいる理由をはっきりさせてしまうと差し障りが出てくる(だれかがいっしょにいられなくなる)ので、できるだけはっきりさせないようにしていく。なによりも「いっしょにいること」を大切にする。これが著者の言う「日本の社会原則」だそうです。

だから、日本人は「憲法はありがたいもの」と思いながらも、近づきがたいもの、できれば棚に上げてお飾りにしておいて実際はのんびりしていたいもの、と思ってしまう。

そんなわけで、(ちょっと著者の論理の流れとずれるのですが)日本人にとって「法」とは、上から押し付けられる煙ったいものであり、できればない方がいいもの、と思っている。村々、家、職場、学校、…にはめいめい不文律があって、ミニ共同体として機能している。あからさまに法に違反するのはまずいが、なるべくなら無視してやっていっちゃおう。そういう対応になる。


うーん、たしかにそうだ。スピード違反からyoutubeで見逃したテレビを見るあたりまで、だいたいこんな感じで動いているように思いますし、私も本音では「あんまりカタイこと言うなよ」「でもバレたら頭下げとけ」とか思ってますし。


最近、飲酒運転やセクハラなどコンプライアンスにうるさくなってきた(昔は職を失うというような大きな社会的制裁を受けるほどではなかった)のは、このあたりの矛盾が表に出てきたからですかね?それとも、こういう矛盾を突くと合法的にいじめができることにいじめ大好き人間が気づいたからですかね?←ちょっと表現が意地悪かな(笑)。


1989年の指摘ですが、未だに通じるという点で、なにか日本人の本質的な部分を言い当てているように思います。1980年代にビートたけしさんが作ったジョーク「赤信号皆で渡れば怖くない」のように。

日本人の「責任」に対する感覚

戦争責任

著者は、戦争責任について、こんなことを言っています。

日本人は責任というと「悪かったと思って心から反省すること」などと思っていたりする。
それは「懺悔」とでも呼ぶもので、責任とは違うと思う。

責任とは、他社に対する行動や、関係のあり方のことだ。

そして、こう続けます。

戦争責任について言えば、一億総懺悔なんかしたってだめである。

第一に、戦争を(何か出来事を)起こした以上、誰かに責任があるに決まっている。その事実関係を明らかにすること。
第二に、それがとても愚かしいものであるなら、そういう戦争を二度と起こさないように、システムを工夫する。

それが、戦争責任だ。

戦争責任についてはともかく、「責任」一般に対する考え方としては、私はとても賛成です。

M都知事の「責任」について(私見)

ちょっと話が飛びますが、ある都知事(M氏としましょう)が予算を私的に使ったとして、最終的には辞任に追い込まれたことがあります。
その時の都知事の発言として

違法ではないが不適切だった

という弁明をした、と記憶しています。

これ、M氏がしでかしたこと(都の公用車で個人的な色彩の強い旅行をしたとかなんとか)より、はるかに大きな問題じゃないかなあ?

だって、逆に言うと

都知事の職は、合法的に不適切なことができる立場にある

と言ってるに等しいじゃないですか。


パソコン世界で例えると「都知事職にはセキュリティホールがある」「私はそのセキュリティホールを利用しただけで、違法行為をしたわけじゃない」と言ってるに等しいように思います。だったら、すぐにそのセキュリティホールを塞ぐことが何より大切だと思うんですが、どうでしょう?


(ついでですが、 Windowsセキュリティホールが見つかればWindowsを使っている人全てにアナウンスするとともにセキュリティパッチを配布して、同じ手が使えないようにするのが、パソコン世界では当然の対応ですよね?同じように、都と似た予算システムを使っている県なり市なりがあるかどうかをチェックして、M氏が使った手口が使われていないかどうか調べたり使えないようにシステムを工夫する必要が、とてもあると思うのですが、どうでしょう?
そもそも、2014年の号泣議員の時にそれをやらなかったから、2年後に都知事で同じことが繰り返されてしまったとも考えられますし、これ以降も同じ出来事は繰り返されるであろうし、さらに言えば水面下ではどのくらい繰り返されているかわからない、と思いませんか?)


そういう展開、つまり「(愚かしいこと・間違ったことがあったら、)それを二度と起こさないように(起こせないように)システムを工夫する」という展開にならずに、辞めろ辞めろの大合唱で辞任させて一件落着だと思ってしまう、というのは、日本人の責任に対する感覚が橋爪大三郎さんが指摘した1989年当時からほとんど変わっていないように思います。


日本人が作る社会の典型

日本人が作る社会の典型1「日本軍」

著者によると、日本人が作る社会の典型は日本軍なんだそうです。で、「ゆきゆきて、神軍」という映画の紹介になります。

私はこの本で「ゆきゆきて、神軍」という映画を知り、見てみました。これ、予備知識がないと何をやっているんだかさっぱりわからない映画だと思います。

日本人が作る社会の典型2「相撲界」

2017年の終わりごろ、相撲の横綱による暴力事件が明るみに出て、大騒ぎになっています。


ところで、この事件は、著者の理論で説明がつかないですかね?


(私の知識で)おおざっぱな流れを説明すると

ある(H横綱)が、酒の席である幕内力士(T関)の態度が悪いのに腹を立て、殴る

T関の師匠であるT親方が警察に届ける

(以下並行して起こる)
相撲協会はT親方に事情聴取を行おうとするが、T親方は拒否
・H横綱は警察の取り調べ、略式起訴、罰金50万円の略式命令を受ける
・T関は2018年1月段階で入院中
・T親方は相撲協会理事の辞任を勧告せられる

みたいな感じですね。


私は、相撲協会の考えもT親方の考えも、たぶん想像がつきます。

トゥギャザネスが壊れちゃった

相撲界が日本人の作る社会の典型だとすると、その社会にも不文律があり、ミニ共同体として機能しているはずです。そして、あからさまに法に違反するのはまずいが、なるべくなら無視してやっていっちゃおう。そういう対応でやってきていたはずです。
それが、なんのはずみかT親方が不文律より法を押し通してしまった。その結果、「トゥギャザネス」が壊れちゃった。H横綱は相撲界にいられなくなっちゃった。相撲協会(=日本人の作る典型的な社会)としては「なんで余計なことをするんだ」と思ったに違いありません。
T親方は相撲協会に一切の事情を説明しませんでした。説明しようとすれば、当然吊し上げを食らうに決まってますから。


相撲協会がT親方やT関を敵視しているのは、報道の端々からもわかります。例えば、入院中のT関に対して「はやく表に出てきて欲しい」と言っていたのは、吊るし上げる気まんまんとしか思えません。

普通は「早く回復して相撲がとれるようになって欲しい」でしょうねぇ。

過去にも「責任」をとってきていない

さらに、暴力というか体罰というか「かわいがり」と表現されるような行為は、ずっと行われていたようです。2007年にある見習い力士の死亡事件が起こっていました。今回も繰り返されているということは

「(愚かしいこと・間違ったことがあったら、)それを二度と起こさないように(起こせないように)システムを工夫する」という展開

になっていなかったことがわかります。


そもそも「法」という意識が本当に薄いのかもしれません。ある相撲記者が「罰金50万円なんてのは、横綱にとって痛くも痒くもない」と言っていました。警察沙汰になり、略式とは言え起訴されて有罪判決を受けてしまったという不名誉は、相撲界の中では考えに入らないのでしょう。
だって、相撲記者も含めて相撲界の人全員が「横綱は悪くない」と思っていれば、不名誉でもなんでもないんですから。


なんだか、橋爪大三郎さんの言っている通りのように思えます。

今でも古びていない本かもしれない

橋爪大三郎さんは、前著はじめての構造主義 (講談社現代新書)のなかで

理論とは、小難しい理屈をならべることではない。ややこしい問題に取り組む場合に、思考の手助けとなってくれるものだ。ファミコンでいえば裏ワザみたいに、教えてもらえばこりゃ便利、誰でもうれしくなってしまうのが当たり前である。

と述べていますが、この本がちょうどそうなっているように思います。


橋爪大三郎さんが1989年に指摘したような考え方で、現在おこっているごたごたもそれなりに説明できるということは、この本は今でも古びていないのかもしれません。言うなれば「橋爪社会学」はとても切れ味の良い道具である、ということでしょうか。



ですので、ご興味のある向きは一読をおすすめします。







おしまい。