マイケル・サンデルの「それをお金で買いますか」を読んでみた

今週のお題「読書の夏」。偶然、読書ネタを書いたので、応募してみます。


本日の内容


  • おまけ

「それをお金で買いますか」を読んでみた

マイケル・サンデルの「それをお金で買いますか」を読んでみました。

それをお金で買いますか――市場主義の限界

それをお金で買いますか――市場主義の限界

なかなかおもしろかったです。

(ところで、原題は「What Money Can't Buy」だそうですが、私はちょっとビートルズの「Can't Buy Me Love」を思い出しました。そのつもりなのかな?)

リバタリアンに焦点を当てている

サンデル教授といえば、トロッコ問題で有名になりましたね。どっちを選んでも大変ですが、これはたぶん、どんな基準で選ぶべきか、公正に選ぶとは何か、正義とはどういうことか、を問う問題だと思います。
前著「これからの『正義』の話をしよう」では、正義・公正・公平と言った問題を、大きな範囲で扱ったと思います。


その中で「リバタリアン」という考え方が出てきました。たぶん「お互いが納得ずくでやる取り引きには、介入すべきではない」「それどころか、介入は、自由意志への反逆である」という主張だと思いますが、今回は、そこに焦点を当てたように思います。

経済的な仕組みがすべてを解決する?

サンデル教授によると、経済学者は、人間の利己心を組み入れた(と言って悪ければインセンティブを重視した)、上手な経済的仕組みを作れば、あとは自動的にうまく行く、と思っているらしいです。

二酸化炭素排出権ビジネス

二酸化炭素排出権を売り買いできるような市場を作れば、世の中うまく行く、という考えがあります。

日本は高技術で炉から出る二酸化炭素の量を減らしている。ホンダラ国は、原始的な炉しか持っていない。日本の排出量をこれ以上減らそうというのは技術的に難しいし、ホンダラ国はお金がないので炉に高技術を導入するのは難しい。


ここで、日本がホンダラ国に持ちかけます。
「きみのところの炉を、高技術炉につくりかえてあげたら、減った分の二酸化炭素排出量を、(権利として)売ってくれるかい?」
「いいよ。でも、高技術炉にしてもらうお金がない」
「なら、売ってもらう排出権代と相殺でどう?そっちはただで炉を高技術にできるし、僕のところは二酸化炭素をもっと出せるから、さらに経済発展ができる」
「ナイスアイデア!まさにWin−Winの関係だね」

こういうふうに話がすすむためには、二酸化炭素排出権市場を作る必要があるわけです。経済学者、やるなあ。


しかしですね、「二酸化炭素排出権」というと聞こえはいいですが、「環境汚染権」と言い換えると、ちょっと気になります。見方を変えれば、「金持ち国が金に物を言わせて環境汚染権を買い漁ってる」とも言えるでしょう。

そう思うと、なにか変な気がしませんか?

セイウチ狩り権の販売

ある種のセイウチは絶滅危惧種ですが、少数民族イヌイット(エスキモー)には、セイウチを狩る権利が認められています。で、そのイヌイットが「セイウチ狩りの権利」を売りに出したい、と言い出しました。それが、認められたそうですから驚きです。

イヌイットが、セイウチのいるところまでハンターを案内する。隠れながら接近し「あとは撃つだけ」にしてから、ハンターにセイウチを撃たせる。その後、イヌイットがセイウチを獲物として収容する。どっちかっていうと「引き金を引く権利」を売るようなもんですな。


セイウチを捕る量は増減しないし、ハンターは満足し、イヌイットは収入を得る(=少数民族の保護につながる)。引き金を引く「指」が変わるだけだから、セイウチの苦痛が増えるとか、そういうこともない。

完璧なWin−Winの関係です。

これらの売買で失われるもの

でも、どうも居心地が悪いというか、なんか変な気がしませんか?
セイウチ狩りに対して、サンデル教授は、こう言います。(私が適当にまとめました。)

イヌイットにセイウチを狩る権利が認められているのは、なぜか?
イヌイット文化への敬意と尊重があるからだ。

それを売りに出すことは、自分の獲物リストにセイウチを加えたいという欲望・ほぼ無抵抗の哺乳類を殺したいという欲望のために、イヌイットのみに認められた権利を売りに出すことだ。

それは、イヌイット文化への敬意と尊重を腐敗させ、失わせてしまう。

おおざっぱにこんな感じです。(だと思います。)


無制限に市場での取り引きを導入すると、道徳的・倫理的な何かが失われる場合がある、と、サンデル教授は言いたいのです。(だと思います。)

献血 VS 献血+売血の二本立て

ある時期、アメリカでは献血(タダ)と売血の二本立て、イギリスでは献血だけでした。両方の統計を注意深く分析した学者によると、アメリカの方がうまく行ってなかったそうです。供給量も血液の質も、無駄に廃棄する量すらも。


私だってそう思います。献血売血の二本立てだったら、たぶん献血すらしません。だって、1回3000~4000円(このぐらい?)で血を売れるのに、タダで献血するのは馬鹿馬鹿しい行為か、高潔すぎて変人レベルの行為でしょう。
かといって、血を売るという行為には抵抗があるので、どっちもやりません。高校大学と、20~30回ぐらい献血をして、記念の楯をもらった私でも、そう思います。


今は献血ができなくなってしまいましたが、当時は「出せる人が限られているなら、出せる人間が出すべきだ」と言うような原始的な相互扶助のようなものや、「俺は人に血液を出せるほど優れて健康な人間だ」という誇りのようなものを考えていた気がします。(体力の塊のような男子高校生でしたしね(笑))。

その気持ち、献血にはあったはずの相互扶助や誇りのような気持ちを、売血は締め出してしまいます。本来は「売血献血で、選択肢が増えたのだから、より望ましい」はずなのに。


しかも、売血の場合は、おそらく低所得層が売ることになるでしょう。ということは、高度医療にかかれる金持ちが、貧しい人の体の一部を買い取る、という構図にもなっていきます。

「高度医療にかかれる金持ちは血を得て、貧しい人は金を得る。Win−Winの関係だね!」と、言えるんでしょうか?

リバタリアン=経済暴力?

マンガ「カイジ」シリーズに出てくる帝愛グループの会長、兵藤和尊のセリフに、こんなのがあります。

この世に暴利なんてものはない!
たとえどんな金利であろうと(中略)その金利について包み隠さずすべて話しているのだ。
借りる側はその金利について充分承知の上、借りていっている。

なんの問題があろう、充分民主的ではないか。

私は、これに賛同する人が、リバタリアンだと思います。「経済暴力」という言葉は、寺山修司がぜんぜん違う文脈で使った言葉ですが、兵藤和尊の考え方は、経済暴力という表現がふさわしいと、私は思います。


これを否定しろと言われると、けっこう難しいですが、サンデル教授は、このセリフに対して、異を唱えるべく頑張っているように思いました。一度サンデル教授にも「カイジ」シリーズを読んでもらったら、興味深い話が聞けそうな気がします。









おしまい。

おまけ

(他にも、サンデル教授は野球のコマーシャリズム批判に紙幅を費やすとともにやや感傷的な書き方をしていて、アメリカ人らしいというか、フィールド・オブ・ドリームスの国だなあと思ったとか、結局こういうのは「金持ちがそれ以外の人間との間に強力な垣根をつくろうとしている行為だ」という指摘が、実に的を射ているとか、藤子不二雄のSF短編マンガに、宇宙人が地球を観察して「ニンゲンは、ある時同時にレースを始める。だんだんレースに差がついて、逆転が不可能になった段階で、またはじめからレースをやり直す。ということを繰り返している、不思議な生物だ」という報告をする話と今回の話は、共通点があるように感じる、と思ったとか、そんな話もありますが、盛り込めないのでおまけです。)