道徳は復讐である

本日の内容


永井均「道徳は復讐である」を読んでみた

永井均の「道徳は復讐である」を読んでみました。

ニーチェ解説本です。
わからないところの方が多かったですが、面白かったです。

著者について

永井均倫理学者ですが、いわゆる倫理・道徳を薦めるのではなく、自分で考えて進むタイプの倫理学者です
倫理について言えば、何かが世間に広く信じられている倫理的な行い・道徳だとしても、自分が間違ってると思えば間違ってると堂々と言うタイプです。

その意味で「倫理的でない」倫理学者と言えます。講義を受けたことがありますが、そういう感じがしました。


ですので、この人の書く本はおもしろいものが多いです。

ルサンチマン

わかったところだけ、まとめてみます。むちゃくちゃなまとめですけど。

「すっぱいぶどう」のキツネはルサンチマン

イソップ物語のように、ぶどうを食べられなかったキツネがいるとします。*1
キツネが「あれはすっぱいぶどうだ」と言っている分には、単に負け惜しみでどうということはありません。しかし、「ぶどうを食べないほうが良い生き方なのだ」などと思い出した時点で、ニーチェの言う「ルサンチマン」に陥ったと言えます。

私がルサンチマンに陥る時

「んなこと思わない」ですって?皆さん、けっこう思ってると私は思いますけど。


例えば、私は時代遅れのゲーム機・PSPを持ってますが 最新のゲーム機・PSVita は持ってません。本体が高い上にゲームも高いからです。「PSPは既に時代遅れですが、逆に中古ソフトが安く手に入るので、結構重宝しています。」なんてことを、コーデッド アームズ コンテイジョン(CODED ARMS CONTAGION) - CrazyCrescent のブログ で書いたりしてます。

でも、もしお金に余裕があるならPSVitaで最新の(=高価な)ゲームがしたいわけです。ほら、「最新機種を追わない消費行動が賢い消費行動なんだ」と思い込むことで、ルサンチマンに陥ってるじゃないですか。


例えば、東京ディズニーリゾートの隣に葛西臨海公園があります。私は両方行ったことがありますが、次に行くとしたら、たぶん葛西臨海公園です。芝生が広々として開放感があり、のんびりできて、うちのちびすけちゃんが満足するまでいっしょに遊べて、その上タダだからです。「東京ディズニーリゾートより、隣にある葛西臨海公園の方がいいな」「子どもと直接触れ合う時間を作れるから」と思ってます。

ホントですかね?仮にディズニーリゾートの招待券と葛西臨海公園内水族園の招待券をもらったとしたら、私はどっちに行くでしょう?たぶんディズニーリゾートです。ほら、本当は東京ディズニーリゾートに行きたいのに、ほいほいっと行くだけの余裕がないので、「東京ディズニーリゾートより、隣にある葛西臨海公園の方がいいな」「子どもと直接触れ合う時間を作れるから」と思い込むことで、ルサンチマンに陥ってるじゃないですか。*2

ルサンチマンの内面化

それでも「PSPの方がいろいろといい」「葛西臨海公園の方がいろいろといい」という段階では、まだ「あのぶどうはすっぱいんだ」と同じ、負け惜しみ(みたいなもの)だと言えなくもありません。
しかし、それを本気で思い込むと「ルサンチマンの内面化」になります。


東京ディズニーリゾートより、隣にある葛西臨海公園の方がいいな」「子どもと直接触れ合う時間を作れるから」あたりなら、まだ負け惜しみでしょう。しかし、「ディズニーリゾートのように他者が用意した規格化された楽しみより、親と子供が自ら創造する楽しみの方がより人間らしく、また子供の発達においても望ましい」なんて言い出すと、それっぽくありません?お受験に血道を上げるご両親や、ゲーム脳を本気で信じちゃうご両親とかは、こういうの(今私が作ったルサンチマンの言い換え)をころっと信じるような気がします。


最初は負け惜しみだったものを、本気で信じるようになる。ルサンチマンが自分の一部になっちゃう。こういうのをルサンチマンの内面化といいます、たぶん。

道徳の復讐

単に内面化しているだけなら「そういう考え方もあるんだね(僕はキライだけど)」ですみます。でも、これが世間一般に信じられると、…。

キリスト教ルサンチマンが強力に内面化されている

「ディズニーリゾートのように他者が用意した規格化された楽しみより、親と子供が自ら創造する楽しみの方がより人間らしく、また子供の発達においても望ましい」は、さっき私が作ったので、まだ世間一般に信じられているわけではありません。

しかし、ルサンチマンが完全に世間一般に通用するようになったものがあります。それがキリスト教です。現実世界では強者に勝てないので「右のほほを打たれたら左のほほを差し出せ」「上衣を取られたら下着も与えよ」と言って、ああなんとかわいそうな人たちなんでしょう私はあなたを許します父なる神よ彼らを救い給えとかなんとか思うことで、自分の中で強者に勝っているわけです。ルサンチマンが内面化しています。


(そういえば「勝負に勝てなかったら、相手の土俵に乗らずに、自分が勝てる土俵を作れ」ってのがありますね。これなんかは「現実で勝てないから『キリスト教』という哀れみ合戦の土俵を作ってその中で勝利している」という手法かも知れません。)

「弱者による道徳」の勝利

そんなこんなで「嫌なことをされても仕返しするな」「広い心をもて」=「利他的な行動こそが良い(道徳的な)行動なんだ」みたいなことを内面化する人々(キリスト教徒)が増えました。

そうすると、恐ろしいことに、キリスト教徒以外の人々の心の中にも、キリスト教徒的な考え方が入り込んできます。だって、今ではほとんどの人が「利己的な行動=悪」「利他的な行動=善」と思ってるでしょ?

そして、(ほぼ)全ての人が「利他的な行動こそが道徳的な行動なんだ」と思ったところで、キリスト教徒は完全な勝利にを手にします。キリスト教徒的弱者は常に強者を憐むことができ、相手も憐れまれていることを知っているので、大きな勝利感を味わう(味わい続ける)ことができるからです。


そういえば、なぜかキリスト教徒的弱者は相手を憐れみますよね。
「右のほほを打たれたら左のほほを差し出せ」「上衣を取られたら下着も与えよ」って、これは相手を憐れんでいるかなめてるかでしょう。なぜ、単に「右のほほを打たれても気にしない」「上衣を取らたら立ち去る」ということができないんでしょうね?風に吹かれた小枝がほほを叩いても、小枝を憐れむことはないのに。

ある意味、屋上屋を架すみたいな行動を取ることによって「あなたは哀れな人なので、さらなる庇護が必要なんですよ」と言っているも同然のような気がします。(そう考えちゃうと、レ・ミゼラブルの司教の行動は最低の行動である、ということになっちゃうんですが。)

道徳の完全勝利

というわけで、強者に勝てない弱者が、強者に復讐するために道徳を作り出し、それを社会の全員に押し付けることによって、完全な勝利(あまりに完璧なので、勝利した事自体・自分が負けた事自体を悟られない勝利)を手に入れるわけです。

「強者に迫害される」という、かつてはマイナスの価値だったものを、「迫害を受け入れ、迫害するもののために祈る。これが良い生き方なんだ」という、プラスの価値に逆転させちゃう。その上で価値の逆転を相手にまで押し付けちゃう。弱者が、常に自分が勝利するようにルール(なにがプラスの価値でなにがマイナスの価値かを決めるルール)を変えてしまう。


これが永井均の言う「道徳の復讐」だと思います。

「神は死んだ」「超人」ってなに?

神は死んだ

で、ニーチェの言葉の中でもとくに有名な「神は死んだ」って、どういう意味なんでしょう?もし上述みたいな読み方が正しいとしたら(私がニーチェ自身を読んでいないというのは問題ですが)、キリスト教の大勝利で神は全てに君臨しているような気もするんですが。

超人

そんでもって、ニーチェの言う「超人」ってどんな人でしょう?上のようなキリスト教的価値観から自由になり、ふつうに「強いことはいいことなのだ」「弱いことは悪いことなのだ」といえる(そういう価値観を肯定できる)真の自由を手に入れた人、同時にその価値観をずっと肯定し続けることができるだけの強さを持った人、ということでしょうか。

(なんかありそうな気がするんですが、もうちょっといい表現ができないかなあ)





おしまい。

*1:ぶどうが木になってます。キツネが通りかかります。ぶどうが食べたいです。ジャンプしてもジャンプしても届きません。キツネはひとりごとをいいます。「あのぶどうはすっぱいんだ」

*2:そうちょくちょくは行かないというだけで、ディズニーリゾートにも行くんですよ。なんだか貧乏くさくなったので書いときます(笑)。